第8回研究会

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日時 2021年4月8日(木)20:00~

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池田善昭 『西田幾多郎の実在論』

 西田幾多郎の実在論 池田 善昭(著) - 明石書店

コメント

  1.  西田幾多郎の最晩年の論文「生命」は重要である。生命は「外と内」、「動と静」、「生と死」など「有と無」の同時性に関わる存在である以上、それらは「反対概念」ではなく「矛盾概念」であって、そのことが我々の生命の理解を難しくしていたのである。「私の所謂主体と環境との矛盾的自己同一的に、時間と空間との矛盾的自己同一的に、全体的一と個物的多との矛盾的自己同一的に、形が形自身を限定する」というのが、西田の生命の定義である。バクテリアの中でも原始的な新種の好熱性水素酸化硫黄還元細菌が海底の泥の中から発見された。「全体的一」である海底の泥の中の世界で、水素をエネルギーにして有機物をもとに生命活動に必須のアミノ酸などの栄養素という「個物的多」を作り出したのである。最初から一つのモノは、生き物の呼吸や時空次元のように、あくまでも「一つのダイナミズム」として逆ざまに変動するがゆえに、そこでの全体性とその各部分(個体)とは、逆ざまに一体化しつつ有機システムを形成する手段となる。生命活動における有機体とその環境との相互関係とは、単なる相互作用ではなく、全体として見れば、有機体の構造は、一つの存続的全体の能動的顕現でなければならない。それはちょうど、樹木の年輪のように、環境に包まれつつ環境を包むものなのである。相互整合的に形が形自身を維持する自己矛盾的働きこそ、西田の言う「行為的直観」に他ならない。この「行為的直観」こそ、生命体とその環境の「あいだ」において、矛盾的自己同一的に形が形自身を限定するための働きであった。逆に言えば、行為的直観が、有機体と環境との間で相互整合的に、形が形自身を維持するところでこそ、生命が現われるのだ。生命は、矛盾的自己同一的な世界が世界自身を形成するところでこそ実在し働く。シュレディンガーは、乱雑さや無秩序さを伴う「正のエントロピー」が、樹木の年輪形成の美しい秩序に代わるところにおいて、生命における「負のエントロピー」という秩序形成を見るのに対して、西田は、それを生命主体と環境との矛盾的自己同一として理解した上で、環境の中の「正のエントロピー」の逆限定的な「負のエントロピー」として見る。西田は、「矛盾的自己同一的な世界が世界自身を形成するところに、生命と云うものが現われるのである。而してそれが生物的科学の公理となるのである」と述べている。また、西田によれば、「手」は行為的直観的器官である。「理性をして理性たらしめたのも亦手である」と西田は言う。手とは理知的に自ら動く身体のことであり、我々人間の行為には、こうした先回りが常に必要だったのである。手の仕組みをはじめとして身体というものなくして私という存在はあり得ないのだとすれば、「身体なき自己」はそもそも生命ではない。自己は己の生命体、即ち身体的に自覚している。自己とは、「自己の全一性」と「身体の個多性」の「矛盾的自己同一」である。「身体なき自己」とは、「主語論理の独断」に他ならない。ところで、福岡伸一の「動的平衡」論を考えてみよう。福岡の生命の定義、「生命とは動的平衡にある流れである」では、西田における「全一性」が福岡では「合成」、西田の「部分的個多性」が福岡の「分解」に相当しつつ、その「合成」と「分解」の両者の同時性においてこそ、生命は「動的平衡」であり、そこでの「分解」と「合成」における「矛盾的自己同一」として理解できるものである。生命体とは、やがて崩壊する構成部分をあえて「先回り」して「分解」し、常に「合成」という再構築を行う仕組みのことであった。福岡のいう「先回り」とは、西田のいう「行為直観」に他ならない。シュレディンガーによる生命の定義は空間次元に偏っていたが、福岡のそれは生命を時間の流れの「自覚」の下で、時間的に考察したのだと言える。上述した海洋研究開発機構によって発見された海底の泥の中の新種のバクテリアは、海底の熱水における時間次元での「動的平衡」が、もしそこで形成されていなければ、大きな発見にはならなかったであろう。本書におけるアンドロイド研究者・石黒浩批判は、これまで述べてきた西田の「主語的論理の独断」の観点からなされる。石黒のアンドロイドは、「身体の忘却」である。人間の「存在」であればそれでもいいが、この「存在」では「無」を含まないため、人間の「実在」を示しえていない。アンドロイドもシンギュラリティも「死」や「無」がないため、「実在」ではありえない。「矛盾的自己同一的な世界が世界自身を形成する所に、生命と云うものが現われるのである」と言われている通り、「生命=身体」は、世界が世界自身を形成する所に現れる。その意味で、我々の身体とは、まさにピュシスそれ自体として常に実在することになる。他方で、シュレディンガーでは、生命システムにおける内部と外部の厳格な区切りの視点、つまり「あいだ」という場所が欠落していた。空間性、物質性という同時存在の秩序では、存在論的区切りが不可能だったからである。そのため、生命における継起する存在秩序が関わる場所的思考ができていなかったのである。シュレディンガーの考え方は一方的に、「共在的存在秩序」としてのエレメント思考に傾いていて、不連続な値だけを持つ物質量の最小単位を量子として理解しつつ、エネルギー量子に固執したのであった。シュレディンガーのエレメント思考は、「現象」や「空間」にこそ向けられていて、「実在」や「時間」には向けられていなかった。シュレディンガーの方程式における確率分布(波動関数)とはいえ、全ての粒子を共存の秩序の下で考え、現象を実在化できていなかった。福岡は、それを乗り越えたのだと言える。生物の内部では現在は常に「先回り」していて、未来的でありうる。福岡は流れの立場に立ちながら、現在の矛盾的自己同一のことを熟知していたことは、驚くべきことである。物質の振る舞いにおいては、粒子即波動、波動即粒子であり、無矛盾的に決定論的ではありえない。シュレディンガーを苦しめていたものは、そこでの不確定性であり非連続性という概念であった。彼には、時空次元に潜む「絶対無」の場所を理解することがなかったから、粒子性が波動性において無化され、波動性が粒子性においてそれぞれ隠れ合い無化されるという「無化の思考」ができなかったのは当然だったのである。彼が帰依したヴェーダーンタ哲学には矛盾的自己同一の思考はあったのかもしれないが、まだ「空観」には徹しえず、十全なる「無化の思考」には至り得なかった。仮にシュレディンガーが仏教を学びそれを駆使することができていたとすれば、彼の仕事は間違いなく驚天動地なものとなっていただろう。一般に、「絶対無」に気づけないのは、我々の論理思考が「有」に対する「無」を「相対的無」として理解することができないからであり、単に「有」の否定が「無」と考えられているからである。「絶対無」とは、「有」と「無」とを共に否定することである。その意味で、生命とは、有(生)でもなく無(死)でもない、その有と無の相互否定、即ち「あいだ」のことである。福岡の言う動的平衡それ自体、絶対現在として過去と未来との絶対矛盾的自己同一の下においてのみ成り立つ。(奥野克巳)

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