第4回研究会

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日時 2021年2月16日(火)20:00~

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五木寛之 『漂泊のこころ』 ちくま学芸文庫

 日本幻論 ―漂泊者のこころ: 蓮如・熊楠・隠岐共和国 (ちくま文庫) | 五木 寛之 |本 | 通販 | Amazon

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  1.  「隠岐共和国の幻」では、取材で隠岐島を訪れた著者・五木寛之は、明治改元の年に松江藩から派遣されている郡代と粘り強い交渉の後、実力で島から追い払った隠岐騒動を取り上げている。隠岐島は9世紀以降にやんごとなき文化人が流されてきた流人の島で、都の知識人、文化人たちに感化・影響を受け、幕藩時代には天領だったこともあり、島民たちは、朝廷の民であるという自負と裏腹に、松江藩への抵抗意識を持ちつつけてきた。幕末には隠岐から京都に出て、朱子学を熱心に修める人物が出たようである。そのうちの一人である中西毅男が中心となって集まったのが、王政復古になったからには松江藩の支配から逃れて郡代を追い出すべきだとする正義党であった。彼らは代官所の本陣の前でじっくり腰を据えて交渉をした後に、酒樽や米や飲料を船に積み込んで見送ったという。その後、隠岐コミューンが、松江藩の報復を恐れて、長州藩などに支援を要請したというのも事実だったようである。他方で、明治新政府は、松江藩と島民が分裂して互いに力を弱め合っている間はよかったが、隠岐コミューンができあがった後は、島民が邪魔になったのではないかと、五木は中央権力に対する「ルサンチマン」を滲ませながら書いている。新政府から隠岐県に派遣されてきたのは、真木直人という人物であった。島民たちの隠岐コミューンへのエネルギーが不完全燃焼で残っている中、真木は廃仏毀釈の嵐に賛同することをすすめ黙認したため、島には首なしの仏像や、廃墟となった寺が残された。五木は、こうした語り口は、私観が入った、小説的なものだと言うが、純情な革命が海千山千の明治新政府に翻弄されて、裏切られ、その挙句に廃仏毀釈を起こしてついえていった隠岐コミューンを静かに見守っているかのようである。言い換えれば、五木は、中央権力が辺地に対してとる態度を、辺地のほうから見つめているのだといえる。
     そうした辺境から眺めるという五木の姿勢は、九州の隠れ念仏を取り上げた「『かくれ念仏』の系譜」の章でもはっきりしている。「カヤカベ」という言葉を中学生の頃に耳にした記憶がある五木は、50歳になった頃に大学の聴講生となり、九州南部の「隠れ念仏」の実地調査をされていた先生から学んでいる。「カヤカベ」は「霧島講」と名乗って、つまり神道を装って霧島神宮へ参拝していたが、実体は、親鸞を祖とする真宗の隠れ念仏の一派だったのである。蓮如によって、集まって喋ることを勧められた門徒衆は、口を開き議論をし、集団化していったが、そこに一向宗の本領があると、五木は見る。徳川幕府は、蓮如の説く「仏法と王法」という教団の二元論を逆手にとって、仏教を政治の中に組み込んでいったが、政治権力側は、つねに仏法に従う者たちからの一揆を怖れるという緊張を孕んだものであり続けた。「カヤカベ」は文字を拒否し、口伝により記憶を継承してきていたが、そのことは、薩摩藩や相良藩で、一向宗禁制が行なわれると、自らの信仰をひたすら守り抜こうとする人々の間に、無垢の情熱が潜行することから生じたと思われる。「カヤカベ」は、冥界からの死者の通信を重視し、吉永親幸を中興の祖として神格化する、真宗が批判する「知識だのみ」の傾向を持つようになったため、秘密保持のための「隠れ念仏」から、自発的に隠す要素を含めて「隠し念仏」的な傾向を持つようになったのだと五木はいう。
     続く「日本重層文化を空想する」では、仏教の日本への伝来は、百済から日本の為政者あてに仏像と経典が伝えられ、国家仏教が輸入されて、それからだんだんと民衆に伝わっていったというイメージで一般的には理解されるが、事実は全く逆で、それ以前に庶民の生活の中に前仏教が広がり、国家権力が民衆から仏教を吸い上げたというふうに考えたほうがいいのではないかという見方を示している。
     「柳田国男と南方熊楠」では、明治から大正まで続けられた柳田と南方の往復書簡が取り上げられている。二人の間の文通の過程で、野人的な南方と、どこかお役人ふうの栁田の間で、交流がギクシャクしてくる様子を探っている。続く、蓮如を取り上げた3つの章では、85歳まで生き、5度結婚して27人の子をもうけているエネルギーを持ったスーパーマン、五木によれば、親鸞から受け継いだエロチシズムに溢れた人物である蓮如が、わかりやすい言葉で「御文」を書き、門徒を「御門徒衆」と呼び、仏の前では全ての人間は平等であるという思想を体現し、寺での寄り合いを、酒を飲み食べ、語り合う場とすることで、没落した真宗を一気に5百万人の集団につくり上げた。五木は、親鸞の信仰思想の領域での格闘を、そこから最も遠い場所にいる人たちに届ける役割を果たした蓮如を、世俗的な人物として、親鸞と区別して冷遇するのではなく、親鸞・蓮如一体説の観点から眺めるべきだと説く。
     「わが父、わが巡礼」と題した章では、五木は、外来種であるセイタカアワダチ草と在来種のススキの攻防と同じように、大和には、多様な文化が攻防を繰り返し、併存するような状況を見て取っている。
     最後に、「漂泊者の思想」で五木が取り上げるのは、漂泊と定住というテーマである。人間の幸福は、一ヶ所に定住することによって見つかるものなのか、それとも、それを探し、放浪することで見つかるものなのか、というのが五木の立てた問いである。シベリアの「ヒステリア・シベリアカ」という病気は、理由なき憂い(暗愁)とでもいうべきもので、定住して定点に縛り付けられている人間が突然暗愁に襲われて、計画もなく直線的に歩いて行って、行き倒れになって死んでしまうというものだという。19世紀のロシア文学は定住と移動という大きなテーマを持つことに、それは通底する。五木は、メーテルリンクの『青い鳥』を読み解くことからこの問題を探っている。五木は、その小説では、青い鳥を探しに行っても幸福は得られず、いつか自分の身近に幸福があるということに気づくが、気づいたときはもう遅く、永遠に幸福を捕まえることはできないということが語られていると読み解いている。ある場所に定着してしまうことで、池の水は淀んでしまう。流れ込んでくる新しい水と出ていく水があって、池が生きた池になるのと同じように、社会も流れていく人々と定住している人々の有機的な結びつきによって健全に生きつづけることができることになるというのが、五木の結論として示されている。(奥野克巳)

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