第10回研究会(公開研究会) 著者とともに 甲田烈『水木しげると妖怪の哲学』 (2016年、 イースト・プレス )を読む ◆日時 2021年5月9日(日)14:00~17:00 ◆場所 zoom(オンライン開催) ◆趣旨 妖怪の何がいったい私たちを釘付けにするのだろうか? 私たちには誰でも幼い頃に、妖怪の絵を見たり妖怪話を聞いたりして、妖怪の実在感にぞくぞくとさせられたり、時には泣き出してしまったことなどがあるはずだ。 その頃から時を経て今、「主語的論理の独断」による「身体なき自己」の日常を生きる私たち大人にとって、もう一度身震いするような妖怪の真実在を体験することはできるのだろうか? ひるがえって、妖怪に向き合うとはいかなることなのか? 本研究会では、妖怪を 「内部」から 観察し、経験するとはいかなることなのかを、 『水木しげると妖怪の哲学』 をテクストとして、著者である比較思想家の甲田烈さん( 東洋大学井上円了哲学センター客員研究員)とともに考えてみようと思う。 ◆著者 甲田烈( 東洋大学井上円了哲学センター客員研究員) ◆聞き手 奥野克巳(立教大学・異文化コミュニケーション学部教授) MOSA(マンガ家) ◆事前申し込み(先着20名) 以下のフォームに所定事項を記入の上お申し込みください。 https://forms.gle/7wt3AonStXBG5cbL8 2日前までに、開催URLをお送りします。 ◆参加 どなたでも参加いただけます。無料。
小林秀雄(1902-1983)と岡潔(1901-1978)によって行われた対談の記録。1965年「新潮」掲載とある。60歳を過ぎた円熟の境地にあった批評家と数学者から繰り出される言葉には、明治・大正・昭和を生きた日本を代表する知性の見た世界が映し出されている。以下で、岡潔の言葉を中心に追ってみよう。
返信削除冬の夜の雨音を聞くのが好きな良寛。じっと聞いていると雨音を聞くことの良さが分かってくる。そこに無明を押さえる境地が潜んでおり、数学をすることもまたそれと同じであると、岡は言う。
数学とは何か。矛盾する二つの命題が矛盾しないことを証明するためにには、銘々の数学者がその結果に満足できるという感情的な同意が必要であり、情が承知せねばならない。数学が成立するためには、情の満足がそれとは別個にいるのだ。本然の感情の問題なしには、数学は存在しえない。
岡は、自然科学はろくなことをしていないと見るが、その主張の土台には、崇高な人類史に対する謙虚な心が不足しているからだという見方が流れている。コレラ菌の発見から30年で世界戦争、相対性理論から25年で原爆投下と、人は自らを滅ぼす方向に歩んできている。人間は破壊のみを行なっているのだ。もし建設が一つでもできるというのなら認めてもいいが、人間は建設は何もしてきていないと岡は言う。自然科学は自然に対してもっと建設のほうに向かって行かなければならない。
興味深いのは、岡独自の人間による自然数獲得の理論である。人が自然数を獲得するのは、だいたい生後18か月の頃だという。一というのは、今立ち上がろうとするときに、全身400いくらかの筋肉が統一的に働くということを体得することであり、そのようにして人間は、一という数学的な概念に気づく。順序数が分かるのは、それよりも早く、生後8か月だと岡は言う。
岡はまた、母に抱かれる赤ん坊の心に言及している。母は他人で、抱かれている自分とは別人だと思っていない段階で、すでに親子の情が生まれているのではないか。自他の別はまだない段階で、親子の情は生まれる。そうした「のどか」の中に、自他の別なく、時間がない「涅槃」の境地がある。その「のどか」こそが情緒であり、その後、自他の別ができ、時間・空間が育っていく。岡は、情緒を世界の根源に見ている。
仏教の光明主義に踏み込んで、岡は数学にも斬り込む。如来は知と意において、無智無能な者である人間に関心を持つことはない。あわれで、可愛いという情において如来は人間に関心を持つ。知がいかに説いたって、情が承知しないというのが数学だという見立てを岡は強調する。
岡はそこから欧米人と日本人への違いへと分け入って、戦中に死ぬことを怖れなかった日本人と異なって、欧米人には無明が働いていて、小我を自分だとしか見ず、運動体系のみを信じて目を閉じてむやみに動き回って、いつ谷底に落ちるのか分からないほど危なっかしいと言う。小林は、岡のこうした議論を「日本主義」だと評している。談論風発たる見事な対談である。(奥野克巳)