第12回研究会 第53回マルチスピーシーズ人類学研究会 と共催 日時 2021年6月13日(日)13:30~17:30 場所 zoom (*申し込みはマルチスピーシーズ人類学研究会のサイトへ) 参与と生命 I 生きる場とともにたしかめる知を巡らせる 【趣旨】 人間という「単一種」が地球環境を破壊したとする「人新世」という今世紀初頭の問題提起に対して、人間によって支配・統御されてきた動植物や微生物などと人間との関係性を軸に「多種」の絡まり合いを主題化するマルチスピーシーズ研究が立ち上がった。マルチスピーシーズ研究は、その出発点から「生命」というテーマを胎んでいた。 私たちは人間である以上に、種である以上に、生命である。生命に「参与する(participate)/関与する(engage)」ことで、生命たり得ている。2021年度マルチスピーシーズ人類学研究会では、「参与と生命」というトピックを設定し、3回シリーズで研究会を開催し、隣接諸領域との対話をかさねながら、私たちが取り組むべき課題を探っていこう。 昨今、研究者として事物を対象化して論じるあり方に疑義が呈されている。その射程は理論家と実践家の従来のあり方を組み替える衝迫力を持つと思われる。そこで、第1回目として今回は、「生きる場とともにたしかめる知を巡らせる」と題して、人類学者、美学・芸術学者、比較思想家に話題提供してもらいながら思索を深めていきたい。 【プログラム】 司会進行:MOSA(マンガ家) 13:30~13:35 趣旨説明 13:35~14:25 奥野克巳(立教大学 異文化コミュニケーション学部 教授) 「『人間的なるものを超えた人類学』を進めてみて『生命』について人類学者が考えたこと」(仮) 14:25~15:15 増田展大(九州大学 大学院芸術工学研究院 講師) 「行き違うアニミズム──イメージ人類学、または物質に生じる思考について」(仮) 15:15~16:35 休憩 15:35~16:25 甲田烈(東洋大学 井上円了哲学セン...
小林秀雄(1902-1983)と岡潔(1901-1978)によって行われた対談の記録。1965年「新潮」掲載とある。60歳を過ぎた円熟の境地にあった批評家と数学者から繰り出される言葉には、明治・大正・昭和を生きた日本を代表する知性の見た世界が映し出されている。以下で、岡潔の言葉を中心に追ってみよう。
返信削除冬の夜の雨音を聞くのが好きな良寛。じっと聞いていると雨音を聞くことの良さが分かってくる。そこに無明を押さえる境地が潜んでおり、数学をすることもまたそれと同じであると、岡は言う。
数学とは何か。矛盾する二つの命題が矛盾しないことを証明するためにには、銘々の数学者がその結果に満足できるという感情的な同意が必要であり、情が承知せねばならない。数学が成立するためには、情の満足がそれとは別個にいるのだ。本然の感情の問題なしには、数学は存在しえない。
岡は、自然科学はろくなことをしていないと見るが、その主張の土台には、崇高な人類史に対する謙虚な心が不足しているからだという見方が流れている。コレラ菌の発見から30年で世界戦争、相対性理論から25年で原爆投下と、人は自らを滅ぼす方向に歩んできている。人間は破壊のみを行なっているのだ。もし建設が一つでもできるというのなら認めてもいいが、人間は建設は何もしてきていないと岡は言う。自然科学は自然に対してもっと建設のほうに向かって行かなければならない。
興味深いのは、岡独自の人間による自然数獲得の理論である。人が自然数を獲得するのは、だいたい生後18か月の頃だという。一というのは、今立ち上がろうとするときに、全身400いくらかの筋肉が統一的に働くということを体得することであり、そのようにして人間は、一という数学的な概念に気づく。順序数が分かるのは、それよりも早く、生後8か月だと岡は言う。
岡はまた、母に抱かれる赤ん坊の心に言及している。母は他人で、抱かれている自分とは別人だと思っていない段階で、すでに親子の情が生まれているのではないか。自他の別はまだない段階で、親子の情は生まれる。そうした「のどか」の中に、自他の別なく、時間がない「涅槃」の境地がある。その「のどか」こそが情緒であり、その後、自他の別ができ、時間・空間が育っていく。岡は、情緒を世界の根源に見ている。
仏教の光明主義に踏み込んで、岡は数学にも斬り込む。如来は知と意において、無智無能な者である人間に関心を持つことはない。あわれで、可愛いという情において如来は人間に関心を持つ。知がいかに説いたって、情が承知しないというのが数学だという見立てを岡は強調する。
岡はそこから欧米人と日本人への違いへと分け入って、戦中に死ぬことを怖れなかった日本人と異なって、欧米人には無明が働いていて、小我を自分だとしか見ず、運動体系のみを信じて目を閉じてむやみに動き回って、いつ谷底に落ちるのか分からないほど危なっかしいと言う。小林は、岡のこうした議論を「日本主義」だと評している。談論風発たる見事な対談である。(奥野克巳)