第10回研究会(公開研究会) 著者とともに 甲田烈『水木しげると妖怪の哲学』 (2016年、 イースト・プレス )を読む ◆日時 2021年5月9日(日)14:00~17:00 ◆場所 zoom(オンライン開催) ◆趣旨 妖怪の何がいったい私たちを釘付けにするのだろうか? 私たちには誰でも幼い頃に、妖怪の絵を見たり妖怪話を聞いたりして、妖怪の実在感にぞくぞくとさせられたり、時には泣き出してしまったことなどがあるはずだ。 その頃から時を経て今、「主語的論理の独断」による「身体なき自己」の日常を生きる私たち大人にとって、もう一度身震いするような妖怪の真実在を体験することはできるのだろうか? ひるがえって、妖怪に向き合うとはいかなることなのか? 本研究会では、妖怪を 「内部」から 観察し、経験するとはいかなることなのかを、 『水木しげると妖怪の哲学』 をテクストとして、著者である比較思想家の甲田烈さん( 東洋大学井上円了哲学センター客員研究員)とともに考えてみようと思う。 ◆著者 甲田烈( 東洋大学井上円了哲学センター客員研究員) ◆聞き手 奥野克巳(立教大学・異文化コミュニケーション学部教授) MOSA(マンガ家) ◆事前申し込み(先着20名) 以下のフォームに所定事項を記入の上お申し込みください。 https://forms.gle/7wt3AonStXBG5cbL8 2日前までに、開催URLをお送りします。 ◆参加 どなたでも参加いただけます。無料。
スーパーで椰子の実を買った三木は、そのジュースに理屈ではなく、懐かしい味を感じ、それは、自身の中にあるポリネシアという「生命記憶」の片鱗であるという。高熱を出して母乳を飲まなくなった乳児であった息子に代わって妻の母乳を吸った三木は、味もなければにおいもないその液体に、生命の流れを逆行せるような何かを感じる。
返信削除三木の思想を根底から支えるのは、こうした彼自身の直観ないしは主観である。私たちが客観的であると考えている何ものか、三木が学習と実験により深く携わった解剖学の知を支える、客観を重んじる自然科学の知でさえ、本書で扱われている生命を生み育ててきた生命史の観点から見れば、不完全な知の体系にしかすぎないとでもいうかの如く、三木の実験と思索は、その端がどこにあるのかを把まえることができないほど、途轍もなく大きい。
三木によれば、胎児は受胎後30日をすぎて僅か一週間で、一億年を費やした脊椎動物の上陸誌を再現する。胎児に宿された過去の形象性が現れるのではない。それは、あくまでも化石に残された当時の形体性を手がかりとする実証の世界、生物の古文書学なのだと、三木はいう。古生代、中生代、新生代を経て、魚類、爬虫類、哺乳類へと至る古代形象が胎児の顔に宿っているのだ。
人間のからだに刻みこまれている動物の形象から三木は、人体の形象の中に、植わったままで「栄養と生殖」という営みを展開する植物の体制と、「感覚と運動」によって営みを遂げる動物の体制が含まれていることを見抜く。「口ー肛」が前者の「植物器官」であり、「頭ー尾」が後者の「動物器官」である。
植物のからだとは、根の延長として大地を従え、葉の延長として天空を戴く、宇宙を包含する規模を持つものであり、植物の生きた姿には「遠」が居合わせている。地球の自然のリズムに合わせて、「遠感得」の性能を持つ植物に対して、動物は同じく、「食」の獲得と「性」の欲求という、いのちのリズムを潜ませる「遠感得」の性能を持つ一方で、「近感覚」という「感覚―運動」系の性能に依存する。後者の動物極から意志作用を持つ「自我」が現われ、人間の「近感覚」は独自の彩を帯びることになる。
考えてみれば、私たち人間は、みなほとんど同じかたちをしているし、動物は濃淡の差はあれ、感覚に基づいて動くという「感覚―運動」系の性能によって、地球のリズムという遠くにあるものに感得する体制を微かに残しながら、「近」という方向―空間で行動する。そのような「生命記憶」を、私たちが母の胎内にいるうちの生まれ出る以前の形象のうちに再現するというのは、大きな驚きではあるのだけれども、三木の所論・思想は、そもそもの生命が出現したことによりかたちが現われたことの必然の観点から見れば、不思議とすとんと腑に落ちる。(奥野克巳)