第6回研究会 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 1月 28, 2021 第6回研究会日時 2021年3月8日(月)20:00~場所 zoom 茂木健一郎・天外伺朗『意識は科学で解き明かせるか』 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント ジアン・クネップ2021年3月9日 17:30 天外伺朗は、20世紀には量子力学が誕生し、21世紀に向かう中、これまでのサイエンスは物質現象だけに限定してきたが、新しいサイエンスは、人間の心、精神、意識を取り込もうとしていると述べ、その可能性を対談者の茂木健一郎とともに探るのが、この本の目的だとしている。アインシュタインの「一般相対性理論」から始めて、「量子力学」を概観する中で、光が光子を取り出しても粒子でもあり波動でもあるという現象に触れ、シュレディンガーの波動方程式では、「量子力学」のある部分が、物理的な説明ができないという点が確認される。アインシュタインの解釈、多世界解釈、コペンハーゲン派解釈と、それらのうちの論争などが順に紹介され、これらをまとめて天外は、いまの「量子力学」から導かれるのは、非局所的な宇宙の存在だと述べ、それを彼のいう「あの世」という概念枠組みに結びつけている。天外のいう「あの世」とは、①非局所的、②観測不可能、③因果律が成立しない、④時間・空間が定義できないという性質を持つ、量子力学の「波動関数の重ね合わせ」によって成立する世界で、デヴィッド・ボームの「暗在系」であり、仏教の「空」、ユングの「集合的無意識」に相当する。他方で、「この世」とは、「波動関数の収縮」であり、①局所的、②観察可能、③因果律に従う、④時間・空間が存在するという性質を持ち、ボームの「明在系」、仏教の「色」、ユングの「意識」にあたる。茂木からの質問に答えて天外は、心と物の統一とは、宗教と科学の統一であると述べている。 茂木は、「量子力学」の系譜を、自然法則は人がいなくても客観的なものとして存在すると考える、数学的真理が客観的に存在するという「プラトン主義」につながる「実在主義」と、自然法則というのは人間が作ったものであり、絶対的な真理であるということは全くないと考える、数学的には非「プラトン主義」、形式主義につながる「実証主義」に分けている。実在主義には、シュレディンガー、ド・ブロイ、ボーム、ペンローズ、実証主義には、ボーア、ハイゼンベルク、マックス・ボルン、ホーキングを、それぞれ代表的研究者として位置づけている。茂木は対談の中で、実在主義は西洋的、一神教的で、人間を含めた宇宙を神の視点から見ているのではないか、実証主義は、人間に留まって、人間の主観を大切にするので、宗教と科学を結び付けるのに力があるのではないかと見ている。 ボームは、実在主義の立場から、観察するまで存在しないような素粒子というのではなく、観察してもしなくても常に素粒子が存在するという「量子ポテンシャル理論」を立てて、粒子と、それが存在する「場」を分けた。その理論は、あらゆる粒子が減衰せずに全宇宙に広がるポテンシャルを持っているという考えなので、全部を積分するというのが難しく、発展途上の理論だということになる。これに加えてボームは、半透明のグリセリンが入った円筒形の容器の中に一滴のインクを垂らしてハンドルを回すと拡散して見えなくなってしまうが、ハンドルを逆に回すと、インクが元の点に戻るという実験から、目に見えている無秩序ではなく、観測できないくらい精妙な秩序があるのではないかと考え、「隠された秩序」を構想する。彼は、一見何の秩序もない干渉縞にレーザー光線を当てて、立体像(秩序)を作りだすホログラフィーから着想を得て、「ホログラフィー宇宙モデル」という仮説を提唱したのである。このことから、素粒子は常にどこかに存在しているのではなく、あるゆらぎの確率に従って、「暗在系」から「明在系」に出てきて、また「暗在系」に戻るという往還を繰り返すと考えた。言い換えれば、我々が物と認識しているものは、噴水の水の形ようようなもので、噴水の中の水の粒子は常に移り変わっているということになる。 続いて、脳と心の研究の概略を説明する茂木に対し、天外は、脳が、大局的な能力である意識を司っているのだとすれば、部分部分を調べる古典的物理学ではなく、大局的であって全体的である、非計算的要素を持つ「量子力学」が発展してようやく記述できるものではないかと述べている。因果律が成立していなくて、時間・空間が一義的に定義できないような世界の話が意識の話だというのだ。天外は、ニューロンの発火現象が全てだとして、そこから意識の問題を解くべく出発している脳科学に欠けているのは、「意識の拡大」という現象だと見る。逆に言えば、茂木が言うように、今の神経科学は、意識にはいろいろな状態があるのに、正常な意識しか扱っていないということになる。そのことは、まず簡単なことから始めようとしていると擁護することもできるが、全体を見ることからはまだかなり遠いところにあるのだと言えよう。 「スピノール」の概念を拡張していった後に、「相対性理論」の時・空の把握を進めて射影空間である「ツイスタースペース」を理論化したペンローズもまた、非局所性と非因果律を表現した宇宙を提案しているのだと捉えることができる。他方で、脳内でニューロンの発火が起きた時、色や音、抽象的な思考が生じるという表象に注目したのが、クオリアである。茂木は、ニューロンの発火とクオリアを結び付けるための基本的な考え方として、「相互作用同時性の原理」を想定している。ニューロンAからBにシグナルが伝わる時、心の中では瞬間に圧縮される。つまり、心理学的な時間は情報伝達にかかる時間を無視することによって構成される。その言い回しからは、ある意味、全体性に向かっているようにも見える。 こうした茂木のクオリアの議論までを聞いた天外の示唆は、以下のようなものである。「量子力学」の実証主義とは、たんなる実証主義ではなく、仏教の「唯識論」である。実際に世の中のものは波動関数の重ね合わせとして存在するが、それを物質として認識するのは人間の意識であり、その意識が波動関数の収縮を引き起こしている。そこまで来ると、実在主義と実証主義のギャップはなくなる。そうすると、「意識の拡大」も説明できるし、集合的無意識も説明できるのではないか。その基礎に、仏教の「唯識論」、ヒンドゥー教のヴェーダーンタ派の教義を持ってくるのが望ましいのではないか。これに対し、茂木は、科学者としてはそれは簡単には受け入れにくいが、天外節は、心と物質の役割をひっくり返してしまえばいいというではないかと結んでいる。(奥野克巳)返信削除返信返信コメントを追加もっと読み込む... コメントを投稿
第17回研究会 参与と生命III 土の思想、科学とアート、参与しつつ消えていくために 7月 27, 2021 第17回研究会 第56回マルチスピーシーズ人類学研究会 と共催 日時 10月31日(日)13:30~17:30 場所 zoom (*申し込みはマルチスピーシーズ人類学研究会のサイトへ) 参与と生命III 土の思想、科学とアート、参与しつつ消えていくために 【趣旨】 三木成夫やベルクソンに影響を受け、90年代に生命論に踏み込んでいった吉本隆明は、マルクスの資本論から「アジア的なるもの」へ、ソ連の農業から日本の農耕へ、安藤昌益の「直耕」から現代日本の産業の中の農業へと独自の農業論を展開した。農業論とは、本来的には、政治思想や経済学は言うに及ばず、生死をめぐる宗教思想などを含め、大地(地球)を前に、自らの生命を育むために、他種の生命を育てることに深く参与し、つねに生命とともに生きることに関する思索であったはずだ。しかし農業論は、日々の営みから遠く乖離してしまった認識論に移行してしまって久しい。 昨今、すっかり失われてしまっていた土の感覚を取り戻してくれたのが、「人間の本性(自然)は種間の関係性にある」と見るダナ・ハラウェイの「共生思想」である。私たちはみな、喰いつつも、喰われる存在者である。生命は、消化しきれないものを身体の外部に放り出し、それが他の生命を利するという関係性の中に生きてきた。汲み取った糞尿を利用して来たのが、近世の日本の農業である。 種間の絡まり合いをめぐる科学史・科学思想から発せられたそうした問いには潜在的に、それぞれの生命が生命現象へ行為主的に不断に参与することをつうじて「表現」していると見ることのうちに、人文学や人間を超えた新しい人文学へと再接続されるための道が与えられていた。私たちは今日、生命それ自体が発する表現のかたちや動きをつかみ取り、アートを介して思考するという時代を生きている。 シリーズ「参与と生命」の第3回は、「土の思想、科学とアート、参与しつつ消えていくために」と題して、草の成長をみつめ、耕すことの意味を、現代農業の実践者としての立場から思考してこられた「稲オタク」である松下明弘さんに、人類を視野に入れて農業についてのお話をうかがう。逆卷しとねさんには、異種間の生命の絡まりあいを前提とした創発を、個体の責任(accountabilityやresponsebility)... 続きを読む
天外伺朗は、20世紀には量子力学が誕生し、21世紀に向かう中、これまでのサイエンスは物質現象だけに限定してきたが、新しいサイエンスは、人間の心、精神、意識を取り込もうとしていると述べ、その可能性を対談者の茂木健一郎とともに探るのが、この本の目的だとしている。アインシュタインの「一般相対性理論」から始めて、「量子力学」を概観する中で、光が光子を取り出しても粒子でもあり波動でもあるという現象に触れ、シュレディンガーの波動方程式では、「量子力学」のある部分が、物理的な説明ができないという点が確認される。アインシュタインの解釈、多世界解釈、コペンハーゲン派解釈と、それらのうちの論争などが順に紹介され、これらをまとめて天外は、いまの「量子力学」から導かれるのは、非局所的な宇宙の存在だと述べ、それを彼のいう「あの世」という概念枠組みに結びつけている。天外のいう「あの世」とは、①非局所的、②観測不可能、③因果律が成立しない、④時間・空間が定義できないという性質を持つ、量子力学の「波動関数の重ね合わせ」によって成立する世界で、デヴィッド・ボームの「暗在系」であり、仏教の「空」、ユングの「集合的無意識」に相当する。他方で、「この世」とは、「波動関数の収縮」であり、①局所的、②観察可能、③因果律に従う、④時間・空間が存在するという性質を持ち、ボームの「明在系」、仏教の「色」、ユングの「意識」にあたる。茂木からの質問に答えて天外は、心と物の統一とは、宗教と科学の統一であると述べている。
返信削除茂木は、「量子力学」の系譜を、自然法則は人がいなくても客観的なものとして存在すると考える、数学的真理が客観的に存在するという「プラトン主義」につながる「実在主義」と、自然法則というのは人間が作ったものであり、絶対的な真理であるということは全くないと考える、数学的には非「プラトン主義」、形式主義につながる「実証主義」に分けている。実在主義には、シュレディンガー、ド・ブロイ、ボーム、ペンローズ、実証主義には、ボーア、ハイゼンベルク、マックス・ボルン、ホーキングを、それぞれ代表的研究者として位置づけている。茂木は対談の中で、実在主義は西洋的、一神教的で、人間を含めた宇宙を神の視点から見ているのではないか、実証主義は、人間に留まって、人間の主観を大切にするので、宗教と科学を結び付けるのに力があるのではないかと見ている。
ボームは、実在主義の立場から、観察するまで存在しないような素粒子というのではなく、観察してもしなくても常に素粒子が存在するという「量子ポテンシャル理論」を立てて、粒子と、それが存在する「場」を分けた。その理論は、あらゆる粒子が減衰せずに全宇宙に広がるポテンシャルを持っているという考えなので、全部を積分するというのが難しく、発展途上の理論だということになる。これに加えてボームは、半透明のグリセリンが入った円筒形の容器の中に一滴のインクを垂らしてハンドルを回すと拡散して見えなくなってしまうが、ハンドルを逆に回すと、インクが元の点に戻るという実験から、目に見えている無秩序ではなく、観測できないくらい精妙な秩序があるのではないかと考え、「隠された秩序」を構想する。彼は、一見何の秩序もない干渉縞にレーザー光線を当てて、立体像(秩序)を作りだすホログラフィーから着想を得て、「ホログラフィー宇宙モデル」という仮説を提唱したのである。このことから、素粒子は常にどこかに存在しているのではなく、あるゆらぎの確率に従って、「暗在系」から「明在系」に出てきて、また「暗在系」に戻るという往還を繰り返すと考えた。言い換えれば、我々が物と認識しているものは、噴水の水の形ようようなもので、噴水の中の水の粒子は常に移り変わっているということになる。
続いて、脳と心の研究の概略を説明する茂木に対し、天外は、脳が、大局的な能力である意識を司っているのだとすれば、部分部分を調べる古典的物理学ではなく、大局的であって全体的である、非計算的要素を持つ「量子力学」が発展してようやく記述できるものではないかと述べている。因果律が成立していなくて、時間・空間が一義的に定義できないような世界の話が意識の話だというのだ。天外は、ニューロンの発火現象が全てだとして、そこから意識の問題を解くべく出発している脳科学に欠けているのは、「意識の拡大」という現象だと見る。逆に言えば、茂木が言うように、今の神経科学は、意識にはいろいろな状態があるのに、正常な意識しか扱っていないということになる。そのことは、まず簡単なことから始めようとしていると擁護することもできるが、全体を見ることからはまだかなり遠いところにあるのだと言えよう。
「スピノール」の概念を拡張していった後に、「相対性理論」の時・空の把握を進めて射影空間である「ツイスタースペース」を理論化したペンローズもまた、非局所性と非因果律を表現した宇宙を提案しているのだと捉えることができる。他方で、脳内でニューロンの発火が起きた時、色や音、抽象的な思考が生じるという表象に注目したのが、クオリアである。茂木は、ニューロンの発火とクオリアを結び付けるための基本的な考え方として、「相互作用同時性の原理」を想定している。ニューロンAからBにシグナルが伝わる時、心の中では瞬間に圧縮される。つまり、心理学的な時間は情報伝達にかかる時間を無視することによって構成される。その言い回しからは、ある意味、全体性に向かっているようにも見える。
こうした茂木のクオリアの議論までを聞いた天外の示唆は、以下のようなものである。「量子力学」の実証主義とは、たんなる実証主義ではなく、仏教の「唯識論」である。実際に世の中のものは波動関数の重ね合わせとして存在するが、それを物質として認識するのは人間の意識であり、その意識が波動関数の収縮を引き起こしている。そこまで来ると、実在主義と実証主義のギャップはなくなる。そうすると、「意識の拡大」も説明できるし、集合的無意識も説明できるのではないか。その基礎に、仏教の「唯識論」、ヒンドゥー教のヴェーダーンタ派の教義を持ってくるのが望ましいのではないか。これに対し、茂木は、科学者としてはそれは簡単には受け入れにくいが、天外節は、心と物質の役割をひっくり返してしまえばいいというではないかと結んでいる。(奥野克巳)